発達障害重ね着男の備忘録

発達障害(ADHD、ASD)持ち。備忘録的に継続して行く事が目標です。

[雑記]「どうしたら人に理解されるのか」より、「どうしたら人を理解出来るのか」を考える方が簡単で有意義

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こんにちは。

今日は、普段から考えている事を、備忘録的に書き連ねていこうと思う。
今回はかなり主観的です。それでも良ければお読みください。

今まで僕は、「人に理解される事」ばかり求めていた

僕は、いわゆる「ゆとり世代」に属する年齢である。
また、発達障害という特性も手伝って、とりわけ今の社会の根幹の世代、つまりは30代半ばから50代後半くらいの方々から、なかなか理解を得る事ができなかった。(この世代の方々、すみません。たまたま自分の親や、周囲の方の多くがそうだっただけなのかもしれません。あくまで僕の主観です。)

大学では人文社会系の学部に所属していた事もあり、そういった世代の若者批判が必ずしも的を射ていない事は理解していた。だからこそ、実際に社会に出てみて「今時の若い奴らは何考えてるのかわからない」とか、「そんなに質素に暮らして楽しいのか」とか、僕たちのパーソナリティに起因するような事も、「ゆとり世代」として十把一からげに語られてしまう事に、強烈な嫌悪感を覚えた。また、適切な睡眠時間などの個人差があるような事も、多くの上司、先輩方から「人間は5時間も寝れば活動できる。3日寝なくても死なない。」とか、「眠いのはやる気や根性がないからだ。」とかお叱りを受けるたび、なぜこの人たちは、自己と他者との違いを認められないのだろう、と感じていた。

発達障害発覚後、現在所属する会社の上司と面談を行った際も、「発達障害って、エジソンとか長嶋茂雄もそうらしいじゃないか、お前も何かの分野でなら天才的な活躍ができるのかもな」と言われてしまった。おそらくなんの悪気もなかったとは思うが、この一言は僕にとってすごくショックが大きいものだった。

親も、上司や先輩ほどではないにしろ「仕事なんだから辛いのが当たり前だ」、「自分を甘やかしてはいけない」と、𠮟咤激励に終始する。なぜ、そのような環境を変えるために効率化しようとか、他者との違いを認め適切配置を心がけようとか、根本からの解決ではなく、精神論に解決を求めるのだろう、と不思議でしょうがなかった。

「親世代」と「自分達世代」の背景の違いに気づいた瞬間

何かのきっかけがあったわけではない。頭の中に絶えず響いている考え事(僕はノイズと呼んでいる)がふとまとまりを持った。
そのまとまりとは、以下のようなものである。


僕は3人兄弟の長男として生を受けたが、下の2人は僕よりもはるかに頭がいい。
しかし、手前味噌にはなるが、僕だって幼少期は落ち着きのない子だとは言われつつ、理解力や記憶力の高さで担当教諭を感嘆させる事が多かったし、学歴も世間的に言えば「まぁ高学歴」の部類に入る。

言ってしまえば兄弟全員インプット能力に恵まれたのだが、親はというと、発達障害特性は見られつつも、どちらもそれほど学歴は高くないのである。僕は、幼ながらに「これがトンビがタカを生むってやつかぁ」なんて考えていたのだが(かなり性格の悪い子供だ)、今はその考えは誤りであったと考えている。

今は「大学全入時代」と言われるほど大学進学率は上がり、大学に行く事はいわゆる「普通の企業に入り、普通の生活」をするための必要要件になったと言っても過言ではない時代である。

しかし、親世代はそうではない。必ずしも高学歴を求められなかったし、高卒でも超一流企業に入る事ができた時代だ。勉強を頑張ろう、なんて発想にならなくても仕様がない。だから、「トンビがタカを生んだ」のではない。能力値的には変わりなかったとしても、環境が僕らを「トンビ」にも、「タカ」にもするのだ。

学生時代、「こどもの役割」論を学習した事がある。近代以前、こどもは「労働力」としてみなされた時代があった。現代はこどもを「可愛がり、慈しむ」対象としてみなす、というものだ。たった30年の違いとはいえ、田舎出身の両親は、その過渡期にいたのかもしれない。僕たちは明らかに、両親からの愛を「わかりやすい」形で受けて育ってきたが、果たして彼らはそうだったのだろうか。

「他者を理解するべきは、苦しい思いをしたからこそ自分なのだ」、ということに気づく


この親と自分を含むその子供の違いについて理解できたとき、僕の中で「自分が苦しんでいるからこそ、他人に理解を求めるのは辞めよう」と思うようになった。

世代論でいうならば、「親世代」と「若者世代」は育ってきたバックボーンが違うが、その違いを論理的に、体系的、そして体験的に学ぶ事ができたのは僕たち「若者世代」である。

発達障害者と定型発達者で言えば、定型発達者は僕らの苦しみを理解する事は難しいが、裏を返せば僕たちは定型発達者の苦しみを理解する事は難しい。

そこの「違い」や「理解のされなさ」に苦しみを覚えているならば、そこに苦しんでいる自分だからこそ、親世代の文脈や定型発達者の文脈を理解しなければならないのだと今は考えている。

その文脈を理解した上で、その文脈に則って、自分の苦しみ、違いへの理解を訴える、というのが自分ができる努力の方向性なのではないか、と今は考えている。

ただし、これは正に「言うは易く行うは難し」である。
妻との間ですら、ついついこの考え方を忘れて口論になることも未だ多い。 そんな未熟な自分を受け入れつつも、この考え方を決して忘れてはならない、そんな備忘録として今日は更新させていただいた。



最後まで読んでくださった方々、ありがとうございました。