[ADHDの工夫]「やりたくない」を「やりたい」に変える具体的な心構え
こんにちは。いっしーです。
先ほど、やりたくないことをADHD特性を持つ私たちがやるためのぼんやりした記事を投稿しましたが、もう少し具体的な例を挙げられるのではと思い、本日2回目の更新となります。
先ほどの記事はこちらから
もっと短いタームで理想の自分を想像する
僕の最終的な理想は「専門分野で活躍する」とか「英語がペラペラになる」とか、他にもたくさんあるんですが、どれも1年、1ヶ月、1週間で達成できるものではないです。
それなのに、戦う前から「どうせ出来ない」と逃げていました。
言うなれば、富士山を登ろうと意気込んで登山口まで来たものの、すぐに足がすくんで引き返しているようなものです。 まず1合目、その次2合目、その繰り返しで山頂まで行けるわけです。 富士山を5分で登ろうなんて土台無理な話です。
ですから、1週間のタームでは、「5分でもいいから勉強を続ける」、1ヶ月のタームでは「単語帳をとりあえず1周終わらせる」、1年のタームでは「高校英語の単語ならば9割がた理解できる」など、それぞれ小さな目標を設定し、それが達成できたら自分で自分を死ぬほど褒めてあげることに決めました。
出来なかったとしても、自分を責めない(正当化はしない)
今までは、嫌なことを3日続けられなかったり、しなければいけなかったことが出来なかった時、心の中で自分を責めるか、それにも耐えられなければ正当化して来ました。
でも、これからは、出来なかった時に自分を責めるのはやめようと思います。正当化することはもっとやめようと思います。
まず、1人で完結することに関して自分を責めても、どうしようもないです。
明日は頑張ろう、で切り替えて終わりにしようと思います。
1人で完結しない事でも、そういう時は大概他人から責められます。もうその時点で責められているので、それはそれで受け入れて、自分はなぜそのような失敗をしたのかフラットに考えたほうがどう考えてもプラスです。正当化でも自責でもなく、反省するようにシフトしていきたいと思います。
ネガティヴな自分は確実にいて、出来ないことだらけ、不安だらけの自分は確実にいます。
だから、小さな変化でも、自分にとっては大きな進歩だ!と受け止めようと思います。
周りと比べて、もうダメだ…と思うのは疲れました…。
よくサッカー日本代表が「相手をリスペクトし過ぎた」と言っていますが、あれは相手と比べて自分たちを過小評価しすぎた、気持ちで負けていたと言いたいのでは、と解釈しています。
周りは周り。自分は自分。 それこそ「自分たちのサッカー」ならぬ、「家族含めた自分たちの人生」を生きていきたいと思います。
今日はこれで終わりです。読んでくださった方々、ありがとうございました。
[雑記]ADHDが「やりたくない」をやる〜欲求と義務感の間〜
こんにちは。
突然ですが、自宅に戻って以来、約1週間ほどですが「勉強すること」にハマっています。
「ハマっている」と書くとなんとも殊勝なように聞こえます。
しかし、実際は、やりたいからやる、という「欲求」と、やらなければならないからやるという「義務感」の間で揺れながら、なんとか行動できている、というのが実情です。
しかし、それでもぼくにとっては大きな進歩。なぜなら、自主的な勉強など中学〜現在までにおいて3日と行ったことがないからです。
それも、中学以来、嫌いでしょうがなかった英語や、入社以来どうしても受け付けなかった会計の勉強を現在行っています。
一般的に、ADHD特性を持つ人は「嫌悪感を抱くものがどうしてもできない、後回しにする」ことが多いと思うので、この特性に悩んでいる方は多いと思うのですが、改善に少しでも役立てばと思い、まだ1週間しか経っていない今だけれど、今回の記事を書こうと思い至りました。
根源にあるものはなりたい自分への「欲求」
ぼくは、小学校高学年から中学校2年生くらいまで、あまり勉強していないのに人よりもあきらかに高得点が取れました。その頃は、「将来、当然英語でコミュニケーション取れるようになってるだろうな」とか、「何かの専門分野で活躍しているだろうな」と、努力もしていないくせに将来の「なりたい自分像」を勝手に思い描いていました。
いや、正確に言うと、今でも「こうなりたい」と思っている自分がいます。
ある時期、妹の圧倒的な頭の良さに打ちのめされ、ぼくはさらに勉強が嫌いになり、勉強しない自分を正当化し始め、自分に対して諦めの感情を持ち始めました。
しかし、やはり僕は、「人よりも少し勉強ができる自分」が好きで、自信を持っていて、そのステータスを示す状態として、「英語がペラペラ」、「専門分野で活躍」する自分を想定していたのです。
「欲求」が「義務感」に変わると、途端にやる気がなくなる自分
僕は上述した欲求を持ちながら、結局今まで行動を起こせませんでした。大学でも、社会人になってからすぐでも、何かしらの行動を起こせば、少しずつでも「なりたい自分」に近づけるのに、「今更もう遅い」とか、適当な理由をつけて頑張ることから逃げていました。
おそらくその時はこう考えていたのではないかと思います。
理想の自分像とは、「なりたい自分」ではなく「ならなければならない自分」である、と。
こう考えると、途端にやる気がなくなります。
なぜならば、理想の自分になるためには「やらなければならない」嫌なことが山積しているわけです。その山を見て、足がすくんだ時に、さらにADHD特性が顔を出し、後回しにする、最悪やらない、というサイクルを形成してしまうのです。
魔法の言葉「やりたくないならやらなければいい」
そんな自分も、3ヶ月の休職を通して、生活リズムを戻し、様々な気づきに触れて、少しずつでも社会復帰の準備を進める中で、「何かしたい」と思うようになってきました。
そこで、自宅に戻ってからは、積読していた英単語帳や英語おさらい本、会計基礎本に取り組んでいるわけですが、この「何かしたい」という欲求にならない時は、基本無理に動かないようにしています。
1度の勉強時間も、10分〜30分がほとんどです。飽きたらすぐにやめます。 で、また「何かしたい」と思ったらテキストを広げます。
やりたくないならやらなくていい、常に自分に言い聞かせると、不思議なことに暫くするとまた何かしら「したくなっちゃう」んです。 していない状態に嫌悪感を抱くんです。この感覚、何と無くでも共有していただけるといいんですが、文章でうまく伝えられないことが歯がゆいです。
我ながらなんという天邪鬼かと思いますが、そういう性分だから仕方ないのです。これが僕に1番合った勉強法でした。
僕たちにとって「したくない」時は「すべき」タイミングではないのかも
上述した通り、「したい」といった感情が芽生え始めた時がやりどきで、「飽きた!やりたくない
」と思った時がやめどきです。
しかし、「やらなければならないこと」は生きて行く中でどうしてもありますが、そうなれば、やりたい理由を適当につけて、5分だけでもやるとか、とっかかりを見つけるといいと思います。経験の話になりますが、やっていくうちに「しょうがない、やるしかないか。。。」と諦めの気持ちがモチベーションになることもあります。もうモチベーションになって仕舞えば、「したい」状態も一緒だと、強引に考えて仕舞えばいいのかな、といまは思います。
あくまで僕の主観なので、全く参考にならなかったかもしれませんが、なにか少しでも「なるほど」と思えるところがあれば幸いです。
今回はこれで終わりです。読んでくださった方々、ありがとうございました。
[後悔]休職前にしておけば良かった!お金にまつわる4つのこと
こんにちは。
今日は現実的な話を少々。
今年7月に妻と入籍を済ませ、来年春に挙式をする段取りをしているのですが、ようやく費用の概算が見えてきました。
全部僕が払うわけではもちろんないのですが、それでも結婚資金って高いですよね。
更に夏のボーナスは新生活の家具やら家電やらに消えているので、正直現状かなり切り詰めて生活しても、結婚資金を捻出できるかどうかはギリギリです。
結局、休職前の僕の杜撰なお金に対する姿勢がこのような現状を産んでいます。
結婚などのビッグイベントはなくとも、休職中のお金って何かと入り用かと思います。
誰もが「まさか自分が休職する」と思って生活していないとは思いますが、発達障害特性を持っている方が就職すると、2次障害で休職する確率はどうしても増えてくるとは思います。
特にADHDの特性でもある衝動性は、お金の管理とは本当に相性が悪いです。
そこで、しくじり先生ではないですが、いま僕が「しておけば良かった!」と思う4つのことをご紹介したいと思います。
1、貯金(定期預金口座の開設)
当然と言えば当然ですよね。僕も、去年の夏までは順調にお金を貯めていました。
しかし、その手段は、貯金用の別の口座(と言っても会社の備品等を立て替えたお金が振り込まれる口座ですが)に、その月余ったお金を振り込むだけ、あとはボーナスには最低限手をつけない、というなんとも杜撰なものでした。
去年夏にその口座から一括で、しかも半ば衝動的に中古車を購入してからは金銭感覚が麻痺し、残業代込みの手取りでも微々たる額しか貯金できなくなってしまいました。
このようなことを防ぐには、簡単には出金出来ない定期預金口座を開設し、自分の衝動性をクールダウンさせる必要性があったと思います。
2、通帳記帳の習慣付け
これも普通の人は本当に当たり前にやっていることだと思います。妻と生活して、1番と言っていいくらい驚かれたことでもあります。
僕は学生時代から、「自分の通帳に記帳をする」という概念がないまま過ごしてきました。
さらに、社会人になってからクレジットカードを使用し出したにもかかわらず、記帳をしていないのですから、自分のお金の流れがわからないまま日々を過ごしていたわけです。
「今月いくら使ったか」という結果論でしかお金の管理をしていなかったので、手持ちのお金がたまたま少なかったことが続いた月のカード代に驚かされることも多々ありました。
なかなかいらっしゃらないとは思いますが、通帳記帳は最低でも月に1回は行わないと、本当にお金の流れがわからなくなり、どこを節約すべきかという概念すら持てなくなります。
3、買い物メモ作成の習慣付け
独身時代は、会社の寮に入っていたこともあり、お金に余裕がありましたので、赤字にならない範囲で好きなものを好きなだけ買っていました。
しかし、そのうちのほとんど、主に漫画や服などですが、結婚する際に売り払ってしまうようなものでした。
つまり、無目的に買い物に出かけて、その時の衝動性に任せてお金を使っていたわけです。
そのような過去を反省し、今は「買い物メモ」を作成しています。
漫画や書籍の所有冊数を自分で制限し、完結した漫画は売りに出すなど、モノの管理に乗り出しました。
洋服は、「どんなものが欲しいか(どのブランドのどのようなアイテムか)」をかなり明確にメモし、給料日前などある程度支出が確定し、余裕がある場合のみ買うように心がけています。
4、会社の給与や賞与、手当に関する規定の熟知
今、1番後悔していることはこれです。あまりにも突然の休職だったため、会社の規定を調べる暇もありませんでした。
そもそも、事務職員であるのだから、最低限自分に関係しそうな規定は覚えておけ!という話なのですが、営業や技術職の方に聞かれたら、規定集の中から要点を抜粋して答えればいいと甘く考えており、実際それで乗り切れていました。
業務にいっぱいいっぱいだったので適応障害と診断されたわけではありますが、せめて、一度調べた規定はその時にノートに書き留めておけばよかった、と今になって思いますが、時すでに遅しです。
休職期間中、一度部長と休職中の給与や有給の消化等に関する面談を行ったので、大まかには把握していますが、現状1番の心配事は「冬のボーナスが出るのかどうか」です。
調べて見たところ、法律に明確な基準があるわけではないので、査定期間に少しでも働いていれば満額でる場合、働いた日数を査定期間日数で割って賞与を算出する場合、休職した時点でボーナスが出ない場合、など、会社によって様々なようです。
僕の場合、4〜9月の査定期間のうち7月いっぱいまでは働いていたのですが、最悪支給されないこともあり得るわけです。
当然査定額が低いことはわかり切っていますが、ボーナスが出るか出ないかによって、お金を貯める心構えも目標額も変わってきますので、若手サラリーマンにとっては一大事です。
総括
以上が、ぼくが「やっておけば良かった!」と後悔している4つのことです。
みなさんからしたら当たり前のことだと思いますが、ぼくはこの「当たり前」ができなかったし、意識もしていなかったのです。
この記事で、もし「自分の中では意識していないけど、世間ではやっていて当然のこと」に思い当たる節がある方が、自分の生活習慣を見直すきっかけになれば幸いです。
長くなりましたが、今日はこれで終わりです。読んでくださった方々、ありがとうございました。
[考え方の変化]突き詰められる何かを無理に「見つける」のではなく「気づく」へ
こんにちは。
僕はWAIS-Ⅲ検査を受けて、発達障害の診断を受けました。 当然動作性IQと言語性IQの凸凹は大きく、言語性IQ-動作性IQ=25程度の差がありました。
今働いている職種は言語性IQが求められるような仕事が限られてくるため、結果が分かってからは向いてないと考えました。言語性IQの高さを活かした、自分でも突き詰められる「何か」ならば、こんな自分でも無理なく働けるのでは、と思ってもいました。
しかし、現在、その考え方は少し変化しています。
どのような考え方にシフトしていったか、今日は綴っていきたいと思います。
「見つける」努力は自分を潰す事にもつながりかねない
僕は、幼少期から本を読むことが好きでしたし、国語だけは大して勉強しなくてもそれなりの点数を取れていたので、正直、言語的理解においては自信があります。
しかし、現在の職種は、じっくり言葉や行動の意味を考えるというよりも、とにかく即座の対応を求められる仕事です。また、短期間に同時に複数の依頼があるため、ワーキングメモリーの少ない自分には不向きですし、その認識自体は今も変わっていません。
言語性IQが分かってからしばらくは、今の仕事は向いていない、少なくとも向いている部署でないと自分は潰れてしまう、とばかり考えていました。
今になって思うと、このような考え方をしていたから、自分を正当化しすぎて潰れてしまったのかなとも思います。
しかし、今となっては、見つかるかもわからない、向いていることを「見つける」努力よりも、他にすべき努力がある事にようやく気付きました。
真に努力すべきは「自分がどうすれば潰れないか」突き詰めること
結局、一芸に秀でていても、それが社会人として有能だと認められるレベルまで昇華させなければ、今の日本では生きていけないことに気付きました。
また、一芸に秀でた有能だったとしても、「有能同士の潰し合い」の環境に必然的に身を置かなければならなくなります。
それらを加味した上で、本当の意味で「自分に向いていること」を探すことなどできないと薄々感じていたし、自分の才能に対しても、自分でも未だに半信半疑です。
結局、「見つける努力」は、僕を辛くすることはあっても、前向きな気持ちにはさせてくれませんでした。
しかし、逆説的に言うならば、「見つける努力」をやめれば、その分僕は辛くなくなるわけです。
つまり、僕がすべきは、「見つける努力」を含めた、「こうすべき」という自分を潰しかねない固定観念を1つずつ捨てていく、「自分を潰さないための努力」だと気付きました。
「見つける」から「気付く」という受け身になってみたい
やっぱり、固定観念というものは、ある程度主体的というか、主観的というか、悪く言ってしまえば独りよがりになりがちだと思います。
今までの固定観念の中から何かを「見つけよう」と思っても、最適な答えなんて見つからないのはある意味当たり前なわけです。
今の僕に必要なのは、「見つける」のではなく、他者との関係の中で、関係性構築のコツや本当にやりたいことに「気付く」ことだと思います。
自分や相手を固定観念の中で潰していくのではなく、相手との関係性の中で何かに「気付く」。
主張するのではなく、謙虚に受け止める。その中の「気付き」の蓄積の中に、僕が突き詰められる何かに気付く時がきっと来るはずです。
その時までは、やはり自分と家族の心と体を第一に考え、普段の生活を少しでも充実させていければいいなと思います。
今日はこれで終わりです。読んでくださった方々、ありがとうございました。
[結婚生活]「世界一難しい恋」最終回から学んだこと
こんにちは。
私事ですが、僕は今年の7月に結婚しております。
その1ヶ月後に発達障害が発覚し、休職しておりますので、妻には悲しい思いばかりさせているかと思います。
後は、やはり拘りが強いので、妻とのちょっとした生活習慣の違いが非常にストレスになっていました。
そんな中、たまたま実家で録画してあった「世界一難しい恋」というドラマの最終回を見たのですが、何というか、今の自分たちの状況とリンクしている箇所が多くて、思わず苦笑してしまうほどでした。
「世界一難しい恋」の概要(ネタバレ有)
このドラマは、大野智演じるホテル会社社長の高飛車で不器用な主人公と、波留演じる一本気で意思の強いヒロインの、一見ミスマッチに思える2人が何度も衝突しながらも、周囲の支えもありながら恋愛を進展させていく、というストーリーです。
最終回では、結婚を意識した主人公が、結論を急ぎ同棲を迫り、お互い話し合った結果同棲を開始し、衝突を乗り越えて高飛車な主人公も少しずつ変わっていく、という展開でした。
人と暮らすことの難しさ
高飛車な主人公は、同棲を開始するにあたり、「自分の思い通りにならなくても絶対に我慢する!」と宣言し、事実その通りにするのですが、不満は顔に露骨に出る有様。
ヒロインが「我慢していることがあったら言って」と言ったことで堰を切ったように不満を述べる場面があるのですが、これが本当に自分を見ているようで…
主人公の我慢とは、靴下の収納の仕方だとか、洗い物のタイミングだとか、お米のかたさ加減だとか、一見すごく下らないのですが、自分もそんな些細なことでストレスを感じていたなぁ…と思わず感情移入してしまいました。
僕ら夫婦は同棲を経ておらず、結婚後から同棲を開始しましたが、性格が近い部分が割と多いので、まぁ俺が我慢すれば大丈夫だろう、と高を括っていました。
妻のちょっとした感情の乱高下も、次第に許せなくなったり…。好きで結婚したはずなのに、今思うとなぜ許せなかったのだろうと思います。
妻や恋人に「母性」を求めてはいけない
妻や恋人に甘えてはいけない、とは思いません。でも、妻や恋人は別人格であり、自分を産んで無条件に愛情を注いでくれる、母親と混同してはいけないということです。
別人格としての妻を尊重し、妻の生活リズムを尊重し、お互いの妥協点を見つけ、改善する。そのサイクルが出来ていなかったし、そのサイクルを行う前提に僕が立っていなかったのだと思います。
明日の夜、自宅に戻ってからは、妻を尊重し、最も信頼を置けるパートナーとして、接していこうと思います。 「親しき中にも礼儀あり」ではないですが、最愛の女性として、また最高の親友として、これからは妻を支えていける夫でありたいと思います。
今回の記事はこれで終わりです。読んでくださった方々、ありがとうございました。
[雑記]休職期間中に刺激を受けた言葉など
こんにちは。
実家帰省期間も残すところあと僅か。自宅に戻れば、職業評価面談、復職面談、服薬相談と、社会復帰に向けた日々に身を置くことになります。
今日は、休職期間中に刺激を受けたことばや、その結果を受けて考えたことを記したいと思います。
映画監督、新海誠氏×作家、川上未映子氏の対談より
「(人が死ぬことの怖さについて作文を書いた川上氏に対し)小学校の先生から、『それは先生にも分からん。分からんけども、それを考え続けていくことはええことやと思う、ええ作文やったな』って言われて、あぁ、私、これ考えてていいんだって、ようやく認められたような感じで。ようやく私が私で居られることを認められたというか」
「(初めての自主制作映画の上映日、自分の映画を見るために列を作った人びとを見た新海氏)今までマイナスだったものがようやくゼロになったんですよ。水面からようやく顔を出せたという感覚で。」
この言葉を受けて、僕はまだ、新海誠氏の言うところの「水面下」でもがいているのかなぁ、と思いました。 発達障害というマイナスをまだゼロに出来ていないし、川上氏のいうような、「自分が自分で居ていい」という感覚もまだないなぁ、と。
なにか自分の出来ること、自分のいいところを自分で認められたら変わるんでしょうけど、現状はまだまだ難しいですね。
休職期間中の母親との電話の中で
要点のみ書き出します。
①スモールステップ、今自分が少し頑張って出来ることを何回も何回も乗り越えて、着実に出来ることを積み上げていく。それで自信がついて行く。
②先ばかり見ない。今出来ることを一生懸命やる。
当たり前のことなんですが、僕にとってはこれが本当に苦手なんですよね。
目標とか、壮大な未来を欲してしまうというか、今出来ることが、苦手なことなのか、していないだけなのか、その判断すら難しいというか…。
一歩一歩、歩みを進めていくために、少しずつ少しずつ考え方を変えていきたいです。
映画「ヒミズ」より
「一度人生にケチがついた人は、価値観を変えてでも生きていかなければならないんだよ! 」
「住田くん(主人公)は自分で決めたルールで雁字搦めなんだよ。」
これは、どちらも二階堂ふみ演じるヒロインのセリフです。
自分の価値観の中でしか生きられず、極端な行動に走った主人公に対して、全力で叫んだものです。
これは物凄く響きました。
でも、価値観を変えるのって本当に大変ですよね。それも、成人してから、「ちょっとだけ普通の人とは違うよ」と言われても、今まで「普通の」文脈の中で生きてきたのに…、と思ってしまいます。
その価値観自体に縛られて雁字搦めなのも分かっては居るんですけどね。
これも、かなり長い目で縄を解いていかないといけないなと思います。
発達障害との向き合い
休職期間中、いろいろと考えました。
ひとつは、
「発達障害だから不幸なのではなく、発達障害の特性を長所と捉えられず、また、発達障害だからと自分の短所を正当化するために発達障害は『障害』となる」ということ。
もうひとつは、
「発達障害である自分が経験則から得られる体験知識は定型発達者の方の75%くらい。だいたい未成年〜成人したてであることを理解しながら、120%以上の体験と学びを繰り返し、極力早く実年齢と精神年齢の一致を目指すことが必要である」ということです。
どちらも、本当に本当に先が長いというか、今の僕にとっては気が遠くなるような話ですが、あまり焦らず、あまり自分を責めず、少しずつ水面の近くを目指して足掻いていけたら、いつか水面から顔を出せたらいいな、と思います。
本日はこれで終わりです。最後まで読んでくださった方々、ありがとうございました。
[考察]ADHDの特性、「過集中」について
こんにちは。
今回は、発達障害当事者として、「過集中」についての自分なりの考えを書いていこうかと思います。
そもそも「過集中」とは
そもそも論で、「過集中」とは一体なんなんでしょうか。
読んで字のごとく「過剰に集中すること」とは言いますが、「過剰に」の部分に発達障害者と定型発達者の「集中」の違いがありそうです。
僕の考えでいうと、過集中とは「ある複数の条件を満たした時に陥る、強烈な集中状態」です。声をかけられても聞こえないし、時間感覚も無くなります。スポーツでいう、「ゾーンに入る」状態に近いと思います。(ゾーンはいろんな漫画、例えば黒子のバスケなんかで詳しく描写されています)
最大のメリットは、「とにかく時間当たりのパフォーマンスが尋常じゃなく優れている」ことだと思います。(ex:2000字のレポートが気がついたら終わっている、その間なんと60分!)
一方で、単純なデメリットとしては、その後の「尋常じゃない倦怠感」が挙げられます。過集中後、普段とは比較にならないほどの倦怠感が襲ってくるので、ほぼ何もすることができません。
過集中に入る条件と、「過集中」の本当のデメリット
これはあくまで僕の場合です。他の条件がある人、すんなりか集中に入ることができる人もいるかもしれませんので、ご参考までに。
①興味が少なからずある分野の作業であること
②期限が極限まで差し迫っていること
僕の場合はこの2点です。というか、静かな環境で特に興味のある分野の本を読んでいたりすると、勝手に過集中になってしまいます。
問題はさほど興味のない分野の作業です。経験則ですが、まず「過集中」状態に入れません。
ここから、「過集中」の最大のデメリットのついて記します。
それは、ズバリ「過集中に期待し、依存した結果、興味がない作業はまず終わらない」ということです。
一度、過集中状態のサクサク処理ができる感覚、大げさに言えば気付いたら作業が終わっている感覚を体験してしまうと、その後の倦怠感を差し引いても、「過集中」状態での処理に期待をしてしまいます。通常の状態で作業を行うことが億劫に感じるのです。
しかし、興味がない分野では過集中は発揮されませんので、大方結果は大惨事、日を見るより明らかなのですが、あのサクサク感の依存度は計り知れず、どこかで期待してしまうのです!
興味がない、苦手な作業を「過集中」に頼ってこなそうとすると、引き伸ばしぐせがついてしまいます。僕の仮説ですが、ADHDの特性に「引き伸ばしぐせ」が挙げられるのも、それが根底にあるのではないかと思います。
「過集中」に頼らずに作業を行うために
興味のない分野でのデメリットもお伝えしましたが、興味があったとしても、過集中後はひどい倦怠感に襲われますので、基本的には過集中に頼らず作業をすることが望ましいと思います。
そこで、過集中が発揮されない前提で、物事をコツコツとこなすために何をすべきか、3点ほど考えてみました。
①逆に集中できないような場所で作業する。(音楽をかける、など騒がしい環境を作る)
集中できる環境にいるから過集中になるのです。だったら、集中できない環境に行って、少しずつ進めていけばいい。という発想です。
②「〇〇までやる!」と時間や範囲を決めずに、心が拒否反応を示しだしたらすぐにやめる。
過集中の倦怠感は、心が拒否反応を起こしているのに、我慢して集中状態を維持した結果だと思います。「めんどくさい、だるい」と思ったらやめてしまえば、倦怠感も少しは和らぐはずです。
③ ②を踏まえ、作業計画には常に余裕を持たせる。
もともと興味がないことはとことんやることができないASD気質もあるので、僕の場合はかなり余裕を持たせた計画を取らなければ、心がすぐに拒否反応を示してしまった場合に結局間に合わないので、緻密な計画作成は必須です。
これら3点は、休職中に考えたものなので、僕自身まだ第1線で活用できていないため、多少なり改良の余地はあると思います。ただ、当分はこれでなんとか過集中のデメリットを防いでいこうと思います。
終わりに
発達障害者といっても十人十色。僕のやり方が必ずあっているなんてことは絶対にないし、僕の症状と全く同じだ!という人もいないと思います。
それでも、多少似ているな、とか、これは俺には合わないな、とか取捨選択していただける情報として(だいぶ主観的ではありますが)、一当事者の戯言として受け取っていただければ良いな、と思います。
今日も読んでくださった方々、ありがとうございました。
[考え方の工夫]発達障害の「優先順位の付け方」について
こんにちは。
便宜上「発達障害の」、と括ったが、僕はADHD特性の「やりたくないことはない後回しにしがち」な面、ASD特性の「物事に対する拘りの強さ」から、優先順位が上手くつけられず、会社での業務に支障をきたしていた。
そこで、今回はどのように優先順位を付けていくのが僕たちにとってベストなのかを考え、一定の答えが出たので、ご紹介しようと思う。
- ①自分なりの「must」、「want to」、「should」を作る。
業務にしろ、日常生活にしろ、対処する事柄に対する捉え方は、「must」、「want to」、「should」の3つ、つまり「しなければならないこと」、「したいこと」、「すべきこと」の3つに分類されると思う。それぞれをどのように捉えるか、僕なりの考えを書き連ねていきたい。
⑴must:しなければならないこと。何方かというと受動的な意味合いで使われる場面が多い。
(例)税金の払い込みをする、締め切りの決まった業務を行う、法律や内規を守る
⑵want to:したいこと。能動的な意味合いで使われる。
(例)寝たい、漫画を読みたい、アイドルの曲を聴きたい、得意な業務をやりたい
⑶should:すべきこと。能動的にも、受動的にも使われる。世の中で良いとされることや、自分がすべきだと認識していること。
(例)運動する、資格の勉強をする、締め切りまで期間はあるが結局はやらなければならない仕事をする
- ②「must」、「(don't)want to」、「should」の組合せ
先の項目で述べた「must」、「(don't)want to」、「should」だが、個人的にはその組合せは4つだと思っている。
⑴「don't want to」かつ「must」
つまりは、「したくない」が、「しなければならない」ことである。
例えば、「この仕事、苦手だしやりたくないなぁ…でも期日は明後日だし…」というような場合だ。「運動苦手だし走りたくないけど、血糖値高いから痩せなきゃいけないんだよな」とかも当てはまると思う。
⑵「want to」かつ「must」
「したい」し、「しなければならないこと」である。中々少ない事例だとは思うが、その中で例をあげる。「やりたいと思っていた勉強が、会社から必ず取るようにと言われている資格と同じ分野なので、張り切って勉強する。」こと、「もともと倫理が好きだが、センター試験の科目になっているので勉強する」などだろうか。